スロヴェニア語の誘惑

 私も今日知ったのだが、三修社からこの2月に『スロヴェニア語文法』が刊行されたという。
 https://www.sanshusha.co.jp/np/isbn/9784384059960/?fbclid=IwAR3BsUwQ3oB56BNOQimS9My2GqBJEHAOvS1gtMj2j4ZOrUhkU537jz2pS5k

 著者は大学書林『スロヴェニア語入門』を始め、辞書・単語帳等、スロヴェニア語関係の著書が複数ある東京外国語大学の金指久美子先生だ。数あるスラヴ諸国の中でもスロヴェニアを専門に研究している方は(自分の知る限りでは)そう多くなく、言語学の観点からスロヴェニア語を研究し、こうした成果を日本語で出してくださる先生がいらっしゃるというのはありがたい。

 ところで自分の話をすると、私はスロヴェニアとかスロヴェニア語というものに対する漠然とした憧れとか興味みたいなものをずっと抱き続けている。
 前回の記事でバルカン・セルビアへの関心については書いたところだが、セルビアと同じ旧ユーゴの中でも、スロヴェニアはやはり少し「バルカン」的要素からは一番遠い気がする。
 もともとオスマンの支配が及ばず、ハプスブルク家の勢力下にあった時代が長かったこと、ユーゴ時代には一番経済的に進んでいて、独立に際してもクロアチアやボスニアのような大規模な紛争を経験せず、いち早くEUに加盟したこと……などなど、色々と理由はあるのだろうが、実際にリュブリャナやマリボルを訪れたときも、語弊のある言い方を選べばとても「ヨーロッパっぽい」雰囲気を感じたものだ。
 そしてそんなスロヴェニアで話されているスロヴェニア語も、セルビア語、クロアチア語等と同じ南スラヴ(まさにユーゴスラヴ)のグループに属するのだが、少しかじってみただけでも色々と面白い違いが目につく。
 とはいえ、私もスロヴェニア語をしっかり勉強した経験はないのでここでひとつひとつ詳細に列挙することはしないが、よく言われる特徴も含めて少し並べると次のような具合である。

・双数が用いられる
 名詞の格変化や動詞の人称変化等にかかわってくる「数」に、単数・複数に加えて2つ・2人を指す「双数(両数:dual)」が存在する。
 人称代名詞+be動詞というしごく簡単な例で言うと、
 (1人称単数)Jaz sem…「私は……だ」
 (1人称双数)Midva sva…「私達(2人)は……だ」
 (1人称複数)Mi smo…「私達(3人以上)は……だ」
 といった形が存在する。よく、スラヴ語の中でも双数を残す言語として取り上げられるのがこのスロヴェニア語と、ドイツのザクセン地方の少数民族によって話されるソルブ語である。

・数詞の形
 スラヴ語の場合、たいてい20以上の二桁の数字は10の位+1の位として表す。セルビア語やクロアチア語もそうだが、スロヴェニア語は逆転して「1の位+と+10の位」という言い方をする。
 「21」という数字の言い方を挙げると、
セルビア語:dvadeset jedan (20+1) 
スロヴェニア語:enaindvajset(1(ena)+と(in)+20(dvajset))

 という感じになる。ドイツ語を知っている人なら馴染みのある言い方だと思うが、こういうところにもオーストリアの支配下だった影響があるのだろうか、などと素朴に思ったりする(きちんと歴史的な経緯を調べたわけではないため、あしからず)。
 ちなみに、スロヴェニア語の「はい」は、Ja(ヤー)である。これもとてもドイツ語っぽい。

 とまあ、初級も初級で習いそうなことばかり挙げてみたが、語彙の違い等もかなりあって、セルビア語を主に日常的に使用している状態でスロヴェニア語を見聞きすると、「わかりそうでわからない」印象を強く受ける。この感覚はなかなかむず痒く、それでいて面白い。他にも、「血」の主格語幹が対格語幹(krv-)に交替する前の古い形(kri)を残しているとか、色々ある。
 私は、学部時代に開講していたスロヴェニア語の授業(半年)に出席したことがあるのだが、講師はスロヴェニア人の先生だった。初級と簡単な会話をやっただけでも、文法や発音の細かな特徴に興味を惹かれたのを覚えている。この授業、やはりというかなんというか、スラヴ語を専攻する学生が受講生の大半を占めていて、他のスラヴ語と比べて違う特徴が出てくるたびになんとなく教室がざわついていたのが面白かった。
 特に、スロヴェニア語で「何」を表す疑問詞Kajが出てきたとき(セルビア・クロアチア語の方言連続体を説明するときに大きな区分のひとつとなる特徴で、「何」を表す疑問詞を基準に、カイ方言、チャ方言、シュト方言という分類をする)、そして先述の双数が出てきたとき、「あれが噂の……」という感じでみんながざわざわしていたのだった(私もそのざわめきの一部だったが)。
 この授業では、スロヴェニア語のミニ会話帳の日本語訳をやったり(恐ろしいことに公式に出版された)、ヨージェ・トポリシッチという言語学者のドキュメンタリー映画の翻訳をやったり(恐ろしいことに上映された)、かなり無茶振りもされたが、面白い経験をいろいろできたと思う。

 また、スロヴェニア語はその小さな国土の中で方言差が非常に豊かなことでも知られている。当時、スロヴェニアからの留学生の人が同じゼミにいたのだが、授業の先生の発音はとても特徴的だ、といったことを言っていた。その先生はノヴォ・メストという町の出身だった(余談も余談だが、メラニア・トランプの出身地である)が、よく覚えているのはKako si?「元気?」のkakoの”o”にアクセントが置かれ、長めの上昇っぽい発音になっていたことだ(セルビア語でもKako si?だが、ベオグラードの発音だと”a”の方にアクセントがあるし伸びない、はず)。山がちな地形もあるためか、ちょっと離れた地域の方言は聞いても全然わからないらしい。
 意思疎通可能性=言語学的な方言分類の基準にはならないのだが、それにしてもスロヴェニアという国の中だけでそんなにバラエティ豊かだというのも面白い話である。同じように山がちなモンテネグロでは、多分他の地域の方言がそこまで違っていてわからない、などということはないのではなかろうか(よく知らないので適当なことを言っています)。

 こうしたいろいろな違いの他、会話による理解に最もかかわってくる要素の一つであろう発音の面でも、スロヴェニア語とセルビア・クロアチア語(標準語)には大きな差異がある。そのため、読んでいてもよくわからないスロヴェニア語は、聞くとなおわからない難しい言葉なのである。
 知り合いのセルビア人に聞くと、みんな大体「マケドニア語はなんとなくわかるけど、スロヴェニア語は全然わからない」といった趣旨の発言をする。もしかすると、ザグレブ(生粋のザグレブ弁はKajで喋るらしい)のクロアチア人だったら、もう少しスロヴェニア語が分かるのかもしれないが、少なくともベオグラードのセルビア人にとって、スロヴェニア語というのは結構遠くの言葉であるらしい。
 マケドニア語も含め、同じ「南スラヴ」という分類ではありつつバラエティ豊かな言語を話す人々が「南スラヴ」を冠する同じ国を形成していたというのは、実に面白いことだと思う。もちろん、スラヴ系ではないアルバニア人、ロマ、ヴラフ、ハンガリー人とか、スラヴでも南ではないルシン系、スロヴァキア系の人などなどもこの地域には居住しているわけだが。

 授業での面白い経験、また、留学中に訪れたマリボルとリュブリャナがとてもいい街だったこともあって、いつかは再訪したいし今度はもう少しまともにスロヴェニア語を使いたい、と思い続けてもう10年が経つ勢いである。他にもブレッド湖とかプレドヤマ城とか鍾乳洞とか、訪ねたことのない有名どころがたくさんある。
 なんだかんだと近くにいつつ、結局コロナでセルビアにいる間のスロヴェニア訪問は叶わずここまで来てしまった。私にとってスロヴェニアは、近くて遠いあこがれの国、みたいな位置づけのままである。せっかく直行便もあるというのに……。

リュブリャナのシンボルはドラゴン

リュブリャナのプレシェーレン広場

 スロヴェニア語もずっと、「やりたいけどセルビア語とやったら確実に混ざる」という理由で再び手を出せずにいる。文法書が出たことだし、少しくらいやってもいいのでは、と思うし勉強したい、のだが、残念なことに今の生活でセルビア語力の向上は「必須事項」であり、ここで近くて結構違う、明らかに混乱を招く言語に手を出していいものか、冬の終わりが近づいてきたのか随分暖かくなってきたベオグラードの片隅で、私は唸っているところだ。

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